言葉録

苦しいとき、辛いとき、悲しいとき、どうしたらいいかわからなくなってしまったとき、そんなときにパッと開いて自分を救う言葉があればいいなと思い、本や他人様のブログから(勝手に拝借して)載せています。m(_ _)m

真我(アシュターヴァクラ・ギーター)

真我(アシュターヴァクラ・ギーター) - アフォリズム

 


おお、師よ、

どうすれば無執着、智慧、自由を見いだせるのでしょう

どうか教えてください!




わが子よ、

もし自由になりたいのなら

感覚のもたらす毒を避けなさい


真理と愛と許し

純真さと至福の甘露を見いだしなさい




土、火、水、風、空 ー

あなたはそれらではない


もし自由になりたいのなら

あなたはこれらすべてを観照する真我

覚醒のハートだということを知りなさい




身体のことは忘れ

あなた自身の気づきの内にとどまりなさい


たちまち、あなたは幸せになるだろう

永遠に安らかに

永遠に自由




あなたにはどんな階級もない

どんな義務もあなたを束縛することはない


あなたは形をもたず、自由

感覚では捉えきれない

すべてのものごとの観照者だ


だから幸せでありなさい!




正や不正

喜びや悲しみ

これらはたんに心が生みだすもの

あなたはそれらではない


行為をしたり、喜んだりするのは

本当はあなたではない


あなたは遍く存在し

永遠に自由




あなたは永遠に自由な

すべてのものごとを見守るただ一人の観照者


だが、もし自分自身を分離した存在と見なすなら

そのとき、あなたは束縛されている




「私はこれをする。私はあれをする」

利己主義の黒い大蛇が

あなたに噛みついたのだ!


「私は何もしない」

これこそが信頼の甘露

それを飲み干して

幸せでありなさい!




あなたは一なるもの

純粋な気づき

それを知りなさい


この確信の炎で

無知の森林を焼き尽くしなさい


悲しみからあなた自身を解き放ち

幸せでありなさい!



10
幸せでありなさい!

あなたは歓喜、限りない歓喜だ!


あなたは気づきそのもの


ロープを蛇と見間違うように

あなたは世界を見間違えたのだ




11
もし自分は自由だと考えるなら

あなたは自由だ


もし束縛されていると考えるなら

あなたは束縛されている


なぜなら、古の言葉にあるとおり

あなたは自分の思うものになるからだ




12
真我は世界のように見える

だが、それはただの幻


真我は遍く存在している


ひとつであり

静かで

自由で

完全だ


行為も執着も欲望もなく

すべてのものごとを見守る観照者

気づきなのだ




13
真我瞑想しなさい

二のない、一なるもの

崇高な気づき


分離した自己という

幻想を捨て去りなさい


私はあれやこれだ

内側や外側だという

感覚を手放しなさい




14
わが子よ、

自分は身体だと考えるために

あなたは長い間束縛されてきた


あなたは純粋な気づきだと知りなさい


この知識をあなたの剣として

鎖を断ち切るのだ


そして幸せでありなさい!



15
行為もなく、欠点もなく

光り輝くあなたは

すでに自由だ


ただ瞑想を修練にするために

束縛されてしまうのだ



16
あなたの本性は純粋な気づき


あなたはすべての中に流れ

すべてがあなたの中に流れている


ただ気づきなさい

狭き心に!




17
あなたは常に不変で

限りがなく、自由であり

穏やかで、かき乱されない

計り知ることのできない気づきだ


ただ自己の気づきだけを求めなさい




18
何であれ形あるものは偽りだ

形ないものだけが在りつづける


この教えの真理をひとたび理解すれば

ふたたび生まれ変わることはない




19
身体の内側にも外側にも

は限りなく存在している

鏡のように

そして鏡に映るイメージのように



20
空気が遍く存在し

壷のまわりを流れ

またそれを満たしているように

は遍く存在し

すべてを満たし

すべてを通して永遠に流れている」


(アシュターヴァクラ・ギーター 真我の輝き 翻訳 福間巖 ナチュラルスピリット33ページ~42ページ)

 


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★上の動画をyoutubeで聞いていたら、朗読者の方が『バクティー・ヨーガの聖典』も朗読されていた。

ヨーガにもいろいろあるんだな・・・

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バクティ・ヨガ

バクティ・ヨガ」は、神への“絶対的”な「信愛」、「帰依」、「献身」を通して、神と一体化する方法です。
日常の心得でもあり、儀式的行為(プージャ:供養)でもあり、瞑想法(サーダナ:成就法)でもあります。

バクティ・ヨガ」では、“常に”、“神だけ”を思い、愛することによって、神以外のものへの執着、感覚的なものへの執着を放棄します。

信愛の対象となる神は様々です。
究極の神は、いかなる人格も形象も超えていますが、「バクティ・ヨガ」では、何からの人格や形象、属性を持った神を対象とするのが一般的です。
一般には、イーシュヴァラ(自在神、主宰神:世界を創造し・主宰する神)を対象とします。

『パガヴァッド・ギータ』ではイーシュヴァラとその化身であるクリシュナ神への「バクティ」が語られ、後の「バクティ・ヨガ」につながっていきます。

礼拝や集中、観想の具体的な対象としては、最初は、特定の自然(太陽、川など)、シンボル(シヴァリンガなど)、神像や神の絵などです。
グルを対象とすることもあります。
やがて、宇宙全体が神の現れなので、最終的には、あらゆる自然に神を見ることができます。
また、形象を持たない神を対象とすることも可能です。

具体的な方法としては、神に供え物をしたり、礼拝したり、神の名前やマントラと唱えたり、観想(ありありとイメージ)したりします。
熱心にそうしているうちに、見神体験、つまり、意図せずに神が姿を持って現前に現れるのを体験します。
そして、神との一体感を感じます。

ヴィシュヌ派では、神との関係の深まりを5段階で考えます。
最初は、人間的関係を築く以前のあり方です。
2番目が「主従関係」、つまり、神を主人のように見る関係です。
3番目が「友人関係」、つまり、神を友のように見る関係です。
4番目が「親子関係」、つまり、神を親のように見る関係です。
最後が、「恋人関係」、つまり、神を恋人のように見る関係です。
さらにそれが深まると、神と一体化します。
最終的に無形の人格神となります。

19C~20Cの聖者であるラーマクリシュナは、女神カーリーへのバクティ・ヨガで有名ですが、彼は、人間は神の化身であるとして、人間に仕えることを説きました。
 
 

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