レッスン232「父よ、一日中、私の心の中にいてください。」
レッスン232「父よ、一日中、私の心の中にいてください。」 - レッスン231〜240
★ああ、今朝の祈りそのままです。ありがとうございます。
わが父よ、私が起きたときから、今日という一日を通して、私を照らしながら、私の心の中にいてください。
毎分を私があなたと共にある時としてください。
そして、あなたが私と共に留まり、私のあなたへの呼びかけを聞き入れて私に答えてくれるために、つねにそこにいてくれることに対する感謝を、私が1時間毎に捧げることを忘れさせないでください。
夜になったら、私のすべての思いがあなたとあなたの愛で静まるようにしてください。
そして、あなたの愛情を確信し、私があなたの子であることを幸福に自覚しながら、私が無事を確信して眠りに就くことができるようにしてください。
救済とは、あなたが最後には、神へと至る自分の道を見出すだろうと神によってなされた約束です。
この約束が守られないことはありえません。
この約束は、時間が終わりを迎え、時間の中に生まれてきたすべての思いも同じく終わることを保証しています。
以前には、そのような平安の思いは必要ではありませんでした。というのも、平安は対極を持つことなくして与えられ、ただ単に存在していただけだったからです。
しかし、小さな心が分裂したとき、癒しの必要が生じました。
断片化した小さな心たちは依然として一体のままでしたが、自分たちの一体性に気づき損ねてしまったからです。
★今でも覚えている、保育園のころ、午後から習い事?のためにもう一度保育園にいく道の途中で、パンを食べながら歩いていたけど、もうすぐ保育園に着くので、道にパンを捨てた(水たまりの中に捨てて、踏んだ)ことを。
このときの罪悪感。
他者を他者として意識したので、自分の持っているものを隠した。
(追記:このことを思い出すときは『パンを踏んだ娘(童話)』という言葉も一緒にくっついて来る)
こうして、他者を欺くたびに、他者を他者として、自分から切り離していって、とうとう自分が自分でない感覚で生きている状態になってしまった。
だから、ずっと本来の自分に戻りたいと祈っていた。
最近やっと、何がきっかけかわからないけど、子供のころにはまだあった、神や兄弟や世界から包まれている感覚がよみがえってきている。