T8-7 コミュニケーションの手段としての身体
T8-7 コミュニケーションの手段としての身体 - テキスト第8章(戻りの旅路)
★、ああ、そうでした。
昨日にひきつづき、身体についてのレッスンですね。
神の子供が自分自身のことを身体だと思うなら、彼は自分自身を卑下しているのであり、自分の兄弟たちのことも同じように蔑んでいるのです。
彼は自分の兄弟たちの中にのみ自分自身を見出せるのだから、彼はこうすることで、自分自身を救済から切り離してしまったことになります。
聖霊は、身体をただコミュニケーションの手段としてのみ解釈するということを思い出してください。
エゴは、身体を通して分離します。
聖霊は、身体を通して他の者たちに到達します。
このように身体をコミュニケーションの手段としてのみ解釈することは、身体の価値についてのあなたの心を完全に変えてしまうことでしょう。
心をひとつに結び合せるために役立てるなら、身体は霊的交流を学ぶ素晴らしいレッスンとなります。ただし、身体が価値を持つのは霊的交わりである聖餐を現に経験するまでのことです。
もし身体が神の子全体がひとつに結ばれるために使ってもらうためにあなたから聖霊に渡す道具になるなら、あなたは、ただありのままの身体を見る以外には物理的なものは何も見なくなります。
何事であれ聖霊から離れて解釈するなら、あなたはその何かのことを信用できなくなります。
あなた自身の救いのために、その兄弟のことを肉体的な存在だと見てはなりません。そして、あなたが救われることが必ず兄弟にも救いをもたらすことになります。
もしコミュニケーションの媒体がコミュニケーション以外のために用いられるなら、その媒体はコミュニケーションの役に立つ力を失ってしまいます。
コミュニケーションを取ることは心をひとつに結び合わせることであり、攻撃することは分離することです。
朗読『奇跡のコース』#65Ⅶコミュニケーションの 手段としての肉体 - YouTube