テキスト第27章(夢を癒す) T27-6 罪の証人
苦痛は、注意を払うことを余儀なくさせ、注意を聖霊から逸らして苦痛それ自体に意識を集中させます。
苦痛の目的は快楽の目的と同じものです。
というのは、苦痛と快楽の両者はいずれも身体を本物とするための手段だからです。
快楽と苦痛は等しく想像上のものです。
罪は、苦痛を快楽に変化させたり、再び苦痛に戻したりします。
そのメッセージとは「あなたはここに、この身体の中にいるので、あなたは傷つけられうる。あなたは快楽を得ることもできるが、その快楽は苦痛という代償を払ってはじめて得られるものだ。」というものです。
この身体は、それ自体では何の目的も持ちませんが、あなたのすべての思い出やあらゆる希望を保持しています。
あなたは見るために身体の目を使い、聞くために身体の耳を用いて、その感覚器官が感じたものをあなたに告げさせます。
あなたには、それらの名前の中のどれが本物なのかを選ぶことはできません。というのは、あなたがどれを選ぼうとも、それは残りものと同じものだからです。
あなたが選ぶのは、ただ、この名前かあの名前かということにすぎません。
あなたがある証人を真理の名において呼び出したからといって、その証人の証言が本物になるわけではありません。
もしその証人が述べるのが真理であるなら、彼の中に真理を見出すことができます。
そうでなければ、あなたが神自身の聖なる名をもって呼び出したとしても、その証人は偽証するのです。
あなたが自分の苦しみをどう名づけようが、そんなことは重要ではありません。
苦しみは、もはやそこにはないのです。
この世界を祝福するために奇跡を送り出す聖霊にとっては、小さく刺すような痛みも、ささやかな世俗的快楽も、死の激しい苦痛もすべて、癒しを求める呼び声であり、悲惨な世界の中で助けを求める悲痛な叫び声としてひとつの音として聞こえるだけです。
<朗読>
みんなの『奇跡のコース』#295 T27 Ⅵ 罪の証人たち - YouTube
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8.
誰ひとり、この世界が自分に代わって見ている夢から目覚めることはできません。
彼は誰か別の人の夢の一部になっています。
彼には、自分が作らなかった夢から目覚める選択はできません。
どうすることもできず、彼は別の心が想像して、大切にしている夢の犠牲になったまま立ち尽くすばかりです。
しかし、実際には、その他の心は彼のことなど気にも留めていないに違いなく、彼の平安や幸福など、その日の天候や時刻ほどにも思ってはいないでしょう。
その心は彼を愛してなどいませんが、自分の夢を満足させるためであれば、どんな役割でも好きなように彼に割り当ててきます。
彼の価値はまったく取るに足りないものであるため、彼は、この世界の空虚な夢の中で想像された無意味な筋書きに従って跳ね回って踊るひとつの影法師でしかありません。
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10.
救いの秘訣とは、次のことに気づくことでしかありません。それは、あなたがこうしたことを自分で自分自身にしているのだということです。
攻撃がどんな形をとるにせよ、あなたが夢の中で自分を攻撃をしたのだということは、依然として真実のままです。
誰が敵や攻撃者の役割を演ずるにせよ、依然として、あなたは自分で自分を攻撃しているというのが真実です。
あなたの味わっている痛みや苦しみの原因のように見えることがどのようなものであれ、それでもなお、これは真実です。
というのは、いやしくも自分が夢見ていると自分でわかっている夢の中の出来事や人物に対して、あなたが反応できるはずがないからです。
夢の中の登場人物をいくらでも憎々しく邪悪な存在にさせるがよいでしょう。それがあなたの夢の中のことだと気づき損ねないかぎり、そんな登場人物はあなたに何の影響も及ぼすことはできないのです。
11.
このたったひとつのレッスンさえ習得できたら、あなたはどのような形の苦しみからも解放されることになります。
この解放のための包括的なひとつのレッスンが習得されるまで、聖霊はそのレッスンを繰り返すでしょう。
★ちょっと夢が優しくなってくると、つい安心してしまう。
わたしがこの夢の正体をしっかり把握して、この世界を完全に手放すまで聖霊の訓練はつづくんだな。
あなたに苦しみをもたらす苦難がどのような形をとろうとも、聖霊はそんなことは問題にしません。
あなたがどのような痛みを聖霊の許に持っていこうとも、聖霊はこの実に単純な真理をもって答えることでしょう。
というのは、このひとつの答えが、ありとあらゆる形の悲しみや痛みの原因を取り去ってくれるからです。