言葉録

苦しいとき、辛いとき、悲しいとき、どうしたらいいかわからなくなってしまったとき、そんなときにパッと開いて自分を救う言葉があればいいなと思い、本や他人様のブログから(勝手に拝借して)載せています。m(_ _)m

T8-2 ありそでなさそな自由意志。あるの?ないの?

T8-2 ありそでなさそな自由意志。あるの?ないの? - テキスト第8章(戻りの旅路)

 

ラメッシ・バルセカール先生が痛快なまでに論証してくれるように、エゴという個人的行為者という感覚は幻想で、聖なる催眠の下で、あらゆる状況において神の意志がなされているとすれば、内心における意志すら錯覚でしかなく、個としての自由は失うようには感じるものの、そこには、個人的な行為者としての責任感、罪悪感からの解放(逆に優越感やプライドも同時に失うことにはなりますが)があることも理解できます。

過去を振り返り、1日の終わりに、その日の出来事を回顧するだけでも、本当にじっくりと、果たして自分にその状況において選択の自由などあったのだろうかと考えてみるなら、自分にはそうするしかできなかったということが理解できるはずだといいます。

★今日の体験(↓timelog)でも、防衛しないでいることさえ、自分の意思では出来なかったと思います。

 

 

舞台とその上で動き回る操り人形

そして、それを上から操っている人形遣い

舞台上の劇を眺める観客、

これらすべてを夢見る者がこなしています。

 

きっちりと筋書きの定まった脚本のある劇が上演されているとすれば、当然、操り人形に自由意志はありません。

 

そして、この夢見る者と夢の中の登場人物の関係は、一元論に立つかぎり、夢見る者を一者(神の子=神)に、登場人物を個別に分離した私たちエゴ・身体に、完全にスライドさせて考えることができます。

 

この世界では、唯一残存している自由意志は選択の自由に関するものだけです。その選択肢は、つねに二つの選択肢、つまり二つの声の間でどちらを選ぶのかというものです。

 

「すでに書かれている」をとことん受け入れるなら、悪あがきに注いでいたエネルギーをもう失わない、重圧から解放されるということになります。

 

エゴを選択するかぎり、自動的に、それまで再生していた映画をそのまま再生しつづけることになり、聖霊を選択することで、よりショートカットされたバージョンの筋書きへの切り替えがなされるという感覚です。

 

私たちにできるのは、ただ価値判断することなく、聖霊を選択し、任せきるということだけです。

そして、聖霊を選択する中で、聖霊と一体化の程度の深まり次第では、本当の大いなる自己を思い出し、それまで見ていた分離の世界、敵にしか見えなかった誰かもみんな自分であるということを思い出すときが、今にも訪れるというのですから、聖霊を選ばないという手はありません。

 

 

 神の声は、ただ神の意志に従って教えるだけです。しかし、神の意志そのものは、聖霊が教えようとするレッスンではありません。なぜなら、神の意志は、あなたの本質そのものだからです。

 

 

長いのでちょっと一息・・・

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 聖霊は、しっかりとした足取りで、あなたを自由の道に沿って導き、あなたを引き戻そうとするすべてのものを、どのように無視して、どのようにしてその向こう側を見通したらよいのか、教えてくれます。

 

聖霊の向かう方向は自由であり、聖霊の目標は神です。


 しかし、聖霊には、あなたを抜きにして神を思うことすらできません。なぜなら、あなたなしでいることなど神の意志ではないからです

 

神の大いなる意志は、力強さにおいても、愛においても、平安においても果てしのないものです。

あなたこそが神の大いなる意志なのです。なぜなら、このようにしてあなたは創造されたからです。

 

 

マトリックス 自由意志という幻想 - 映画