言葉録

苦しいとき、辛いとき、悲しいとき、どうしたらいいかわからなくなってしまったとき、そんなときにパッと開いて自分を救う言葉があればいいなと思い、本や他人様のブログから(勝手に拝借して)載せています。m(_ _)m

恋焦がれているなら逢いに行かないでどうします 花岡修平 「真我が目覚める時」

その愛に満たされなさい。
それを受け入れ、全てをまかせなさい。
やろうとしてやってはいけません。
やりたいときに、やりなさい。
間近になった者は、一日に何度でもそうしたくなります。
何度でも逢いに行きたくなります。
そうなったら、そうしなさい。
これは修行でも、努力でもありません。
ただ恋焦がれて逢いに行くだけです。
ラーマクリシュナが一日に何度もトランスしたように。
我々も何度でも逢いに行けます。

逢いに行って、その愛を頂きなさい。
それは完全に無条件の、理由の要らない愛です。
その甘い味わいを知りなさい。
それを味わうなら、あなたに溢れてくるのは、ただ感謝だけになるでしょう。
神の実在を確信するに至るでしょう。
全てはそれである事を知るでしょう。

内なる神の故に、外なる全てがそれであり、外なる神さえも知るに至るでしょう。
全てあなたの意識がそれなのです。
あなたはそれであり、あなたが如実なのです。
一日に何度でも、それに逢える事が無くても、恋焦がれていて、逢いに行きなさい。
ただそうするだけです。
そうさせない壁とは、後ろから引き戻すのは、利己的な何かを隠し持っているからです。

欠片のひとつも隠しておかないよう、エゴを消さずともエゴから自由でいなさい。
神が愛しいのであれば、エゴさえも愛おしく、許してあげられるでしょう。
エゴを消す必要はありません。
認め許し、それから自由でなければいけません。
瞑想は、目を閉じずに、開けたまま。
そうでなければ、感覚している感覚さえ眠ってしまいます。
その感覚を感じ取らなければいけません。
最初は意識がとても疲れるかも知れません。
それで、次の瞑想は日にちが遠のいてしまうかもしれません。
それでも、自分は怠惰だと思わず、そういう自分を認め許してください。
逢いたい感覚を思い起こすようにしてください。
慣れれば、楽しみにさえなってきます。
神と言う言葉を聞いただけで、その文字を見ただけで、そこに呼ばれるようになります。

 

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