言葉録

苦しいとき、辛いとき、悲しいとき、どうしたらいいかわからなくなってしまったとき、そんなときにパッと開いて自分を救う言葉があればいいなと思い、本や他人様のブログから(勝手に拝借して)載せています。m(_ _)m

JQA #23: 赦しの第2ステップの具体的なやり方

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まず、例えば、「友人に裏切られたと思って怒りを感じている」という状況があったとします。

「私はこの人が自分を裏切ったせいで怒りを感じているのではなくて、本当の原因は自分の心の中にあるのだ」と認識する、というところまでが、第1ステップでした。

(ちなみに、第1ステップの段階で、自分がしたことやしなかったことゆえに、自分自身に怒りを感じたり、自分を咎めていたりしている場合もありますが、それも、他人への怒りと同じように扱うことができます。説明が複雑になるので、ここでは他者に対する怒りのみを例として挙げますが、この世界の中の具体的状況に現れる「被害者と加害者」の構図そのものが、心の中の罪悪感の投影です。)

 

●「友人に裏切られたように思ったのは、私自身がそのように解釈するという選択をしたからだった」と認識する。

● さらに、「そのように自分を被害者と見るという私の選択は、私の心の中の罪悪感の投影だった」と認識する。

● さらにその罪悪感(神からの分離にまつわる罪悪感)を感じることも、一つの選択だった」と理解し、最終的にはその罪悪感を手放す。

そのためには、まず、この友人に対する怒りの感情を、自分の心の中の罪悪感に触れるために使うことができます。

 

第1ステップで「原因は自分の心の中の自分の選択にある」ということを認識しても、それだけでは、まだ怒りの感情は消えていません。知的レベルの理解として、「そういうことなのだろう」と受け入れていても、嫌な気持ちや不快感は残っています。

それでもとにかく、とりあえず、その友人のことは脇に寄せて、その「嫌な気持ち」を感じつつ、今度は自分の心の中へと注意を向けてみます。そして、その不快感と共にしばらくとどまってみます。

 

要するに、誰かを咎めたり責めたりしているとき、心の中では、自分を咎めている、つまり、罪悪感を感じている、ということです。

相手との葛藤から生じた不快感をしばらく感じていると、その通りだということがわかってくるはずです。(すぐにわからなくても、いつかはわかるようになります。)

ですから、友人に対して怒りを感じていたという状況から、自分の中に、自分自身に対する怒りがあるということを発見します。

直視しなければならないのは、この怒りや咎めの気持ち(=罪悪感のバリエーション)です。

 

 

まず、この罪悪感を感じてみると、ものすごく不快な感情なので、当然、見ようとしても容易に直視できない、あるいは、すぐにでもそれを手放したい、そこから逃れたいと感じてしまいます。

それを自分の外に捨てたいと感じるはずです。

それがまさに、投影という自我の力動が働いているその瞬間を目撃しているということなのです。

それを自分の外に捨てたいと感じるはずです。それがまさに、投影という自我の力動が働いているその瞬間を目撃しているということなのです。

 

また、この罪悪感を抱いたまま、神に近づいてみようとすれば、恐れを感じます。

自分を裏切った友人を赦そうとすれば、直ちに、「赦せない。赦したくない」という気持ちが湧いてきて、その瞬間も、自分が分離を選んでいることがわかります。

 

赦すためには、自我が隠蔽していたものを明るみに出して、自我による掌握を緩めていかなければなりません。

それを可能にするのが、聖霊の助けを借りて、自我を直視することなのです。

これは、自我を見て、それをより良いものに変えようとしたりせずに、それと戦おうとしたりもせずに、ただ冷静に、咎めずに見るという、静かなプロセスです。