脳みそを箱に入れる
↑いきなり、「なんじゃそりゃーーー!!」の題ですよね。
これは前に一度timelogの朝の一言に書いたのですが・・・
たぶん、ほとんどの人に「またなんか訳のわからんこと言っとるわい」とスル―されていると思うので、もう一度書く。(笑)
ヘミシンクの『オープニング・ザ・ハート』というCDの最初に、
・・・「海から箱が流れてきます。その箱の中に瞑想の邪魔になるものを入れてください」(←適当)みたいなことが言われるのです。
で、その日の朝は、CDはかけなかったけど、その箱のことを思い出したので、「あ、脳みそ入れよ」って思ったのでした。
なぜ、こんなどーでもいい事を書いているかと言うと、
今、花岡修平さんの記事を読んでいて、↓ の質問で、「脳みそを箱に入れる」は、この「頭のない方法」と同じことをやったのではないかと思ったのです。(書きながら「ど――でもいいこと書いてるなぁ・・・」と思っている)(笑)
と自我はそう思っているけど、後になると、どっかと繋がっていて意味のあることだったりするんだよね。これが・・・
先日の日記で↓
ふと、思いついて、後から書きたした法事のお経が花岡さんと繋がっていたように。
>この記事の「わたし」が消える実験(ワンネス感覚)と以前の記事のダグラス・ハーディングの「頭のない方法」の実験は体験としては同じなのでしょうか?
同じではありません。
前者は意図的に思考の減衰を試み、「わたしが消える」事によって認識者を特定する事無く、認識だけがある故に、全ては現れているだけでありそれ以外は無いと観る事。
それは数々の(個々の)模様(形や色)を認識していながら、分離の感覚の無い、ひとつの、また全的な在りように漂い在る事です。
その時、全てが認識であり、あえて認識している者を置くならば、認識対象の全てがその者であるという感覚です。
そこにひとつ以外のふたつめ、みっつめは無く、純粋なる全てを観る感覚、溶け込んだというよりも、それ全部はひとつという感覚を知ると思います。
一度それを発見できれば、次からは比較的楽にそれに入れると思います。
後者は頭という意識からのシフト、つまり観察者としての意識を持ったまま、その意識そのものにシフトし、その立場から世界を認識する時に、結局認識者の認識する全ては、認識者の頭(認識作用)そのものであり、身体としての頭も身体そのものも、それに続く空間も家も森も空も、ただ続く模様(形や色)であり、それらは認識する頭(意識)に現れ展開されている全てと観える事。
この場合、観察者という立場があり、それだから世界という頭がある。
しかし、世界の個々の分離はやはり無いという事に気づくでしょう。
そうであるから、認識者の方に展開が、その変化が現れ来て、認識者が変化の方へ移動しているのではないという観え方となるのです。
ですから、あくまでも認識者を置いた観方、それを中心に現れが現れ来るのだと理解できると思います。
前者は認識そのものの立場にあり、思考が立ち現われにくい状態での気づきであり、後者は認識者としての立場を捨てていませんので、思考による新鮮な驚きとかは後者の方が楽しめると思います。
まあ、両者の同じ部分は、分離境界、つまり境目はどうでもよくなるという事でしょうか。
しかし、何度も言いますが、これが悟りというものではありません。
これらは、その感覚に入れるか入れないか、だけの事です。
きゃーーー!!
オカメインコのカンちゃんを放したままほっといて、この記事書いていたら、
多肉植物を食べられてしまった!!
本来は↓ こういう形
ラブハートが・・・・
ギザギザハートに!!!!