言葉録

苦しいとき、辛いとき、悲しいとき、どうしたらいいかわからなくなってしまったとき、そんなときにパッと開いて自分を救う言葉があればいいなと思い、本や他人様のブログから(勝手に拝借して)載せています。m(_ _)m

それを見てはいけない

★昨夜、仕事帰りの車の中で、この言葉がきてから消えない。

神から分裂した(と思った)とき、この言葉が危険信号の警報ブザーのように鳴っていたのだろう。

 

今、また、この言葉が来たのは、鏡の世界から抜け出そうとしている今、再び、「振り返ってはならない」と、鳴っているのかもしれない。

 

もう振り返ることはない。

 

神が呼んでいるのだから。

 

 

 

shikoutoshi.hatenablog.jp

背筋をまっすぐ、結跏趺坐、壁に向かって、食事や洗い、立居振舞、そのような細かな作法があっては、それはエゴです。
それは道元の勝手な都合です。
わざわざ捉われの要素を集める必要はありません。
自由に、好きな時に、好きな時間、わずか数秒でも、どのような体位であれ、そこに在りたいと思ったら、その時そこで行きなさい。
並木道を散歩していて神を思いたくなったら、そこで行きなさい。
それは、閃光のように、感動として意識に現れるかも知れません。
エゴを観察していて、エゴの立場ではなく観察する者の立場に居る事に気づいたら、そちらに意識の向きを変えて行きなさい。

 

それは内側に在ります。
瞑想に決まりも作法もメソッドもありません。
あなたがそこに行くだけです。
胸の内部に、それが満ちているのを意識の目を開いて覗きなさい。
意識の目でそれを感覚し、それに溺れなさい。
あなたの身体全部が、それで満ちるのを感覚しなさい。
あなたはそれであり、それは如実であり、それは不可分です。
あなたが、何かを得るためであってはいけません。
望み、希望、期待、そのようなものではなく、そうしたいときにそうしなさい。
あなたがそれに逢いたいときに、そこに行きなさい。
恋焦がれたそれに逢いに行くように、ただ行きなさい。
迷子になった子が、母親を探すように、それに行きなさい。
何の理由もなく、それに行きなさい。
そういう習慣が、辿り着かせてくれます。

それの、その手に抱かれなさい。
その愛に満たされなさい。
それを受け入れ、全てをまかせなさい。
やろうとしてやってはいけません。

 

やりたいときに、やりなさい。
間近になった者は、一日に何度でもそうしたくなります。
何度でも逢いに行きたくなります。
そうなったら、そうしなさい。
これは修行でも、努力でもありません。
ただ恋焦がれて逢いに行くだけです。

 

逢いに行って、その愛を頂きなさい。
それは完全に無条件の、理由の要らない愛です。
その甘い味わいを知りなさい。
それを味わうなら、あなたに溢れてくるのは、ただ感謝だけになるでしょう。
神の実在を確信するに至るでしょう。
全てはそれである事を知るでしょう。

内なる神の故に、外なる全てがそれであり、外なる神さえも知るに至るでしょう。
全てあなたの意識がそれなのです。
あなたはそれであり、あなたが如実なのです。
一日に何度でも、それに逢える事が無くても、恋焦がれていて、逢いに行きなさい。
ただそうするだけです。

 

そうさせない壁とは、後ろから引き戻すのは、利己的な何かを隠し持っているからです。

欠片のひとつも隠しておかないよう、エゴを消さずともエゴから自由でいなさい。
神が愛しいのであれば、エゴさえも愛おしく、許してあげられるでしょう。
エゴを消す必要はありません。
認め許し、それから自由でなければいけません。

 

 

瞑想は、目を閉じずに、開けたまま。
そうでなければ、感覚している感覚さえ眠ってしまいます。
その感覚を感じ取らなければいけません。

 

悟りは「私の死」ではなく、「私からの自由」です。
「私」はどうなるのでしょう・・・とても愛おしいものとして、意識に統合されます。