神と共に
清らかな者 花岡修平 「真我が目覚める時」 - わたしの終わり
自己保存を完全に手放すなら、それが清らかな事なのです。
罪を犯す事があったろうが無かったろうが、その要素を持ち、発動させる可能性を隠し持っている者と、大きな罪を犯したとして二度と罪を犯す要素を発動する事が無い者であるなら、後者の方が清らかなのです。
「過去」は、記憶でしかありません。
記憶によって被害者は苦しみ続けます。
しかし、その苦しみも、許せないという「自己保存」によるのです。
そして「今」は、記憶ではなく、この今の、唯一存在する「時」です。
在るのは、「今」しか存在していないのです。
「今」清らかである必要があるのです。
「今」自己保存を完全に手放した者であれば、神の恩寵は頂けるのだと、わたしは知っています。それは、「自己に対する、あらゆる現れを受け入れる」と言う事です。
★神と共にいるとき、目に映る風景に誘発されて過去の嫌な記憶がよみがえってきても、神と共にそれを見れば、泡ぶくのように消えてしまう。
神と共に見るものすべては愛しく、愛を喚起させる。
もし、神酔いしたらどうなっちゃうんだろうと思ったとたんに、
自己保存が「とんでもない、普通の生活が送れなくなる」と言った。