言葉録

苦しいとき、辛いとき、悲しいとき、どうしたらいいかわからなくなってしまったとき、そんなときにパッと開いて自分を救う言葉があればいいなと思い、本や他人様のブログから(勝手に拝借して)載せています。m(_ _)m

ハートはわかっている

「信じるちから」と「わかるちから」 花岡修平 「真我が目覚める時」 - わたしの終わり

 

信じる事と、わかる事の、この全く異種の受け取り方を、我々は思い起こさなければなりません。

信じるとは、自我の思考に他なりません。
言葉と思考を用いて、信じるべきか否かを判断し、その判断基準を自己の欲求に置き、包み込み、いかにもわかったと思い込んで記憶に保管するのです。


わかるというのは、深層の向こう側での洞察です。
そこに思考は介在せず、それが直観として、表面に現れ来るのです。
精妙なるインスピレーションです。
Holy force です。
瞑想は、それによって、開花するのです。

 

そうであるから、ラマナは「あなたは眉間に集中してどうしようと言うのか」と、あきれて言うのです。
ひたすら眉間に集中しようとする心の、落ち着きのない闘いは、エゴ(思考)によるものです。

 

あなたの愛は、どこから湧いて出てくるのでしょうか。
あなたの喜びは、どこから湧いて出てくるのでしょうか。
安堵の安らかさは、どこに置かれているのでしょうか。

 

気づきは、そこから立ち起こってきます。
そこに、わかるちからが、わかる能力が息づいているのです。
そこを、胸に感じてください。
そこは、あなたの神に最も近い場所です。
そこから、全てに意識を届けられるでしょうか。
宇宙の、彼方全ての隅々まで。
あなたが描く宇宙が、そこから広がり、展開されているのを観る事ができるでしょうか。

 

しかし、意識の届く速度は、時間が関与せず、瞬間に宇宙の果てまで届きます。
あなたの意識が、宇宙全てを描写しているのです。
真実のあなたは、そのように、とてつもなく大きな宇宙を描き出しているだけでなく、それを超えて無辺に大きいのです。


それは全てであり、ひとつであり、神の在り方と、全く同じなのです。
ところが、あなたの自我は、その中のほんの一点、その頭の中に閉じこもっているそれでしかありません。
ニサルガダッタの言うように、「わたし」というのは、この小さな一点でしかないのです。

信じるとは、その一点が信じているに過ぎないのです。
それを解放して、今、この胸のわかるちからに落ち着いて、全てを感受してください。

 

何も持たない人に、欲しがらない人に、恩寵は与えられます。
欲得の無い人にしか、真実の幸せは理解できません。
エゴを明け渡し、素っ裸な、清らかな者となって、はじめて神の愛を、恩寵を頂けるのです。


頭で、思考で、信じるのは、言葉を知ってしまった功罪の片割れかも知れません。
ハートで、深層で、言葉も、思考もなく、直観的に、ダイレクトにわかる、わかるちからを取り戻してください。
ハートの奥底に、それがあります。
その神聖な場所と神性なちからを、取り戻してください。
あなたの、内なる、唯一ゆだねられるその、絶対者に頼ってください。