世界は学び場
「自分が経験していることとは、自分が心を思い出すことを学ぶための<教室>であるに過ぎない」という認識が、<正しい心>の生き方を、<間違った心>の生き方から識別するのを助けてくれます。https://t.co/herrA74GZj #JACIM
— 約束 (@i_chie_) July 3, 2019
白隠禅師が「ほう、そうかい」といって、(あまりにも都合のいい相手に対して)どのように赦したのだろう。
「世界は幻想だ」だけでは、せいぜい相手を無視するかないものとするかだろう・・・
でも「世界は学び場」であり、相手は「自分を目覚めさせてくれる聖霊」と見れば、感謝がわく。
J:助け主は父が私の名によってお遣わしになる聖霊です。
彼がすべてを教えてくれるでしょう。
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と、ここまで午前中に書いて、
「今日、出会う人すべてを聖霊とみよう」と思って仕事に行った。
実は以前から、もう仕事を辞めたいと思っていた。
時間に追われて仕事をするのではなく、本当に作りたいものだけを作って、気が向いたらネットで販売してもいいし、もう少しゆとりが欲しいと思っていた。
でも、ただでさえ人手不足なのにそんなこと言うわけにもいかず、我慢していたが、
自分ではどうにもならないのだから、もう聖霊に任せようと思った。
そしたら、なんと、今日、店長から
店長:「ちょっとお話があるのですが・・・・」って。
(私:はい、聖霊さん、何でしょうか)
「今年いっぱいで辞めようと思います。
これからはネット販売しようかとも考えているんです」ってぇーーーーー!!
こーーんな展開あるんかい!!
同じこと考えていたんだ。
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(7.5)
(昨日はスッキリ見事に問題解決したはずなのに)
一つ解決すると、すぐさま次の問題を(ほんの些細なことでも)大げさに持ってくる。
自我は問題がないと困るようだ。
聖霊に尋ねる。
「私は何に気づけばいいのですか?
これを通して何を学べばいいのでしょう?」と。
問題にフォーカスするのではなく、学びの材料とする。
J:「あなたが信じて祈り求めるものは、すべて得られます。」
まさしく、まさしく。
自分にとって何が最善のものか自我の私にはわからない。
でも聖霊は最善のものを最善の方法で与えてくれる。
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「あなたがやりたいことをやることが皆の幸せに繋がる」竹崎裕子さん 20190606