言葉録

苦しいとき、辛いとき、悲しいとき、どうしたらいいかわからなくなってしまったとき、そんなときにパッと開いて自分を救う言葉があればいいなと思い、本や他人様のブログから(勝手に拝借して)載せています。m(_ _)m

孤独に対する恐怖

アイデンティティ=「ニセモノの私」: 笑うウリエルがまだブログをさせられるようです部(笑)

 

私は正直に孤独に対して恐怖があること認め、その埋もれて忘れ去っていたような恐怖を引きずり出しました。そして、気が済むまで感じることにしてみたのです。
それは幼いころ、ひとりで留守番をさせられているような感覚でした。とても心細い気持ちになる、あの感覚。昔からあった、よく知っている感覚でした。
ヒマさえあれば、それを感じるようにしました。そして、思考を使っていろんな角度から、その恐怖を眺めたりしました。分析はしません。ただ眺めるだけです。
それをやりはじめて、2、3週間くらい経ったときです。ふと、突然に、ホントに突然にすべてが明らかになったのです。まさに『恩寵』です。

それは言葉にすることはできません。でも、確かに感じたのは、ずっと私を守ってきたエネルギーのようなものです。そのエネルギーは、傷だらけになって、じっと横たわっているような状態でした。それをを明確に感じたのです。そして、それが今までの「私」を創り出し動かしていたエネルギーだと直感で知りました。何から何まで。すべてこの私を守るために!

私の言動の大半は、彼によって発せられていたのです。彼は「孤独」は心細く辛いことで、ウリエルを苦しめると信じて疑わないようです。その「苦しみ」を私に味わわせまいと必死で戦ってきたのです。
彼こそが「ニセモノの私」です。「ニセモノの私」って、こんなに健気で愛おしい存在なのです。私はどうして今まで彼に気づかなかったのかと、涙が溢れました。こんなに痛々しいエネルギーなんて……

「もういいよ」

そう彼に告げると、彼が静かに微笑んだような気がしました。そして、消えてゆくのがわかりました。

その次の日、「孤独の恐怖」を感じようとしても、なんと、できなくなっていました。
というか、孤独って一体なんなのか、わからなくなってしまっていたのです。

 

恋焦がれているなら逢いに行かないでどうします 花岡修平 「真我が目覚める時」

その愛に満たされなさい。
それを受け入れ、全てをまかせなさい。
やろうとしてやってはいけません。
やりたいときに、やりなさい。
間近になった者は、一日に何度でもそうしたくなります。
何度でも逢いに行きたくなります。
そうなったら、そうしなさい。
これは修行でも、努力でもありません。
ただ恋焦がれて逢いに行くだけです。
ラーマクリシュナが一日に何度もトランスしたように。
我々も何度でも逢いに行けます。

逢いに行って、その愛を頂きなさい。
それは完全に無条件の、理由の要らない愛です。
その甘い味わいを知りなさい。
それを味わうなら、あなたに溢れてくるのは、ただ感謝だけになるでしょう。
神の実在を確信するに至るでしょう。
全てはそれである事を知るでしょう。

内なる神の故に、外なる全てがそれであり、外なる神さえも知るに至るでしょう。
全てあなたの意識がそれなのです。
あなたはそれであり、あなたが如実なのです。
一日に何度でも、それに逢える事が無くても、恋焦がれていて、逢いに行きなさい。
ただそうするだけです。
そうさせない壁とは、後ろから引き戻すのは、利己的な何かを隠し持っているからです。

欠片のひとつも隠しておかないよう、エゴを消さずともエゴから自由でいなさい。
神が愛しいのであれば、エゴさえも愛おしく、許してあげられるでしょう。
エゴを消す必要はありません。
認め許し、それから自由でなければいけません。
瞑想は、目を閉じずに、開けたまま。
そうでなければ、感覚している感覚さえ眠ってしまいます。
その感覚を感じ取らなければいけません。
最初は意識がとても疲れるかも知れません。
それで、次の瞑想は日にちが遠のいてしまうかもしれません。
それでも、自分は怠惰だと思わず、そういう自分を認め許してください。
逢いたい感覚を思い起こすようにしてください。
慣れれば、楽しみにさえなってきます。
神と言う言葉を聞いただけで、その文字を見ただけで、そこに呼ばれるようになります。

 

shikoutoshi.hatenablog.jp

彼こそが贈り物なのです。

T20-5 永遠の伝令 - テキスト第20章(神聖さのヴィジョン)

 

この世界においては、神聖な関係の中で、神の子は本来の自分に最も近づきます。

 

神の子の一部である者たちは時間の中で徐々にひとつに結ばれていき、

彼らが結びつくたびに時間の終わりがより近くにもたらされます。

 

あなたが自分の兄弟のために平安だけを望むようになったとき、あなたに彼の真価がわかるようになります。

 そして、あなたが彼のために望むものを、あなたは受け取るでしょう。

 

 

あなたは、彼が差し延べてくれるもの以外に何が欲しいというのでしょう。

 彼の価値は大いなるによって定められており、あなたが彼を通してからの贈り物を受け取るとき、あなたは彼の真価を認めることでしょう。

 

あなたは彼を裁こうとは思わなくなるはずです。というのは、キリストの顔を見ていながら、それでもなお裁くことに意味があると言い張る者など誰もいないからです。

 ヴィジョンかそれとも裁きか、それはあなたの選択次第です。

ただし、決してその両方を選ぶことはできません。

 

身体を見る視覚は、神聖な関係の目的に奉仕するうえで役立つことはありません。

 そして、あなたが自分の兄弟を肉眼で見えるものとして見ているうちは、まだ手段と目的が一致していないのです。

 

あなたがいつの日か、自分の兄弟に捧げることになる完璧な信頼が、ここではすでにあなたに差し延べられています。

そして、ここでは、あなたたちがお互いに与えることになる限りない赦しは、もう兄弟に与えられているのであって、あなたがこれから見ることになるキリストの顔も、ここではすでに見られています。

 

彼こそが贈り物なのです。

 

聖霊ヴィジョンを通して、あなたにもその贈り物が見えるし、聖霊の理解を通じて贈り物を認識し、自分自身のものとしてするようになるでしょう。