言葉録

苦しいとき、辛いとき、悲しいとき、どうしたらいいかわからなくなってしまったとき、そんなときにパッと開いて自分を救う言葉があればいいなと思い、本や他人様のブログから(勝手に拝借して)載せています。m(_ _)m

神と共に

 

清らかな者 花岡修平 「真我が目覚める時」 - わたしの終わり

 

自己保存を完全に手放すなら、それが清らかな事なのです。

 

罪を犯す事があったろうが無かったろうが、その要素を持ち、発動させる可能性を隠し持っている者と、大きな罪を犯したとして二度と罪を犯す要素を発動する事が無い者であるなら、後者の方が清らかなのです。


「過去」は、記憶でしかありません。
記憶によって被害者は苦しみ続けます。
しかし、その苦しみも、許せないという「自己保存」によるのです。
そして「今」は、記憶ではなく、この今の、唯一存在する「時」です。
在るのは、「今」しか存在していないのです。

「今」清らかである必要があるのです。
「今」自己保存を完全に手放した者であれば、神の恩寵は頂けるのだと、わたしは知っています。それは、「自己に対する、あらゆる現れを受け入れる」と言う事です。

 

★神と共にいるとき、目に映る風景に誘発されて過去の嫌な記憶がよみがえってきても、神と共にそれを見れば、泡ぶくのように消えてしまう。

 

神と共に見るものすべては愛しく、愛を喚起させる。

 

もし、神酔いしたらどうなっちゃうんだろうと思ったとたんに、

自己保存が「とんでもない、普通の生活が送れなくなる」と言った。

 

 

shikoutoshi.hatenablog.jp

苦痛を感じているのだから、苦痛はあるのだ、でいいのです。

ただ、なぜ苦痛と感じているのかを、見破り知っている必要はあります。

 

真実を受け入れる事無しに、価値基準を疑う事無く、その基準とズレていると思うから苦痛が現れるのでしょう。
つまり、真実が苦痛を生み出すのではなく、価値基準、判断基準が苦痛の原因となっているかも知れないという事です。

 

自我の我々には、真実の図り事は、まさに計り知れません。
そのようにして運ばれて行く事が、実は、予定された整合された順路であるやも知れないのです。

 

我々はいつだって、動かされて行くように、事象が現れてくるのです。
そして、それが動く時、それは動くようになっていた事が成就されたのです。

 

そうしたいと思っていても、そうはならず、そうはしたくない
と思っていても、そうなってしまう。


我々は、間違いなく運ばれていて、それを自分で選択意思決定していると思っている不思議な自分(自我)を生きているのです。
それは、自我の中では自分の選択意思決定である事は間違いないのですが、真実から見たら、それは運ばれているのです。


つまり、誰もかれもが、そのように見守られて、つまり、愛されて、大事に生かされている存在なのです。


あなたの神は、そのようにあなたをいつも離れてはいません。
その大きな愛を、我々は噛みしめ、味わえたらいいですね。

それを見てはいけない

★昨夜、仕事帰りの車の中で、この言葉がきてから消えない。

神から分裂した(と思った)とき、この言葉が危険信号の警報ブザーのように鳴っていたのだろう。

 

今、また、この言葉が来たのは、鏡の世界から抜け出そうとしている今、再び、「振り返ってはならない」と、鳴っているのかもしれない。

 

もう振り返ることはない。

 

神が呼んでいるのだから。

 

 

 

shikoutoshi.hatenablog.jp

背筋をまっすぐ、結跏趺坐、壁に向かって、食事や洗い、立居振舞、そのような細かな作法があっては、それはエゴです。
それは道元の勝手な都合です。
わざわざ捉われの要素を集める必要はありません。
自由に、好きな時に、好きな時間、わずか数秒でも、どのような体位であれ、そこに在りたいと思ったら、その時そこで行きなさい。
並木道を散歩していて神を思いたくなったら、そこで行きなさい。
それは、閃光のように、感動として意識に現れるかも知れません。
エゴを観察していて、エゴの立場ではなく観察する者の立場に居る事に気づいたら、そちらに意識の向きを変えて行きなさい。

 

それは内側に在ります。
瞑想に決まりも作法もメソッドもありません。
あなたがそこに行くだけです。
胸の内部に、それが満ちているのを意識の目を開いて覗きなさい。
意識の目でそれを感覚し、それに溺れなさい。
あなたの身体全部が、それで満ちるのを感覚しなさい。
あなたはそれであり、それは如実であり、それは不可分です。
あなたが、何かを得るためであってはいけません。
望み、希望、期待、そのようなものではなく、そうしたいときにそうしなさい。
あなたがそれに逢いたいときに、そこに行きなさい。
恋焦がれたそれに逢いに行くように、ただ行きなさい。
迷子になった子が、母親を探すように、それに行きなさい。
何の理由もなく、それに行きなさい。
そういう習慣が、辿り着かせてくれます。

それの、その手に抱かれなさい。
その愛に満たされなさい。
それを受け入れ、全てをまかせなさい。
やろうとしてやってはいけません。

 

やりたいときに、やりなさい。
間近になった者は、一日に何度でもそうしたくなります。
何度でも逢いに行きたくなります。
そうなったら、そうしなさい。
これは修行でも、努力でもありません。
ただ恋焦がれて逢いに行くだけです。

 

逢いに行って、その愛を頂きなさい。
それは完全に無条件の、理由の要らない愛です。
その甘い味わいを知りなさい。
それを味わうなら、あなたに溢れてくるのは、ただ感謝だけになるでしょう。
神の実在を確信するに至るでしょう。
全てはそれである事を知るでしょう。

内なる神の故に、外なる全てがそれであり、外なる神さえも知るに至るでしょう。
全てあなたの意識がそれなのです。
あなたはそれであり、あなたが如実なのです。
一日に何度でも、それに逢える事が無くても、恋焦がれていて、逢いに行きなさい。
ただそうするだけです。

 

そうさせない壁とは、後ろから引き戻すのは、利己的な何かを隠し持っているからです。

欠片のひとつも隠しておかないよう、エゴを消さずともエゴから自由でいなさい。
神が愛しいのであれば、エゴさえも愛おしく、許してあげられるでしょう。
エゴを消す必要はありません。
認め許し、それから自由でなければいけません。

 

 

瞑想は、目を閉じずに、開けたまま。
そうでなければ、感覚している感覚さえ眠ってしまいます。
その感覚を感じ取らなければいけません。

 

悟りは「私の死」ではなく、「私からの自由」です。
「私」はどうなるのでしょう・・・とても愛おしいものとして、意識に統合されます。