言葉録

苦しいとき、辛いとき、悲しいとき、どうしたらいいかわからなくなってしまったとき、そんなときにパッと開いて自分を救う言葉があればいいなと思い、本や他人様のブログから(勝手に拝借して)載せています。m(_ _)m

脳みそを箱に入れる

↑いきなり、「なんじゃそりゃーーー!!」の題ですよね。

 

これは前に一度timelogの朝の一言に書いたのですが・・・

たぶん、ほとんどの人に「またなんか訳のわからんこと言っとるわい」とスル―されていると思うので、もう一度書く。(笑)

 

 

ヘミシンクの『オープニング・ザ・ハート』というCDの最初に、

・・・「海から箱が流れてきます。その箱の中に瞑想の邪魔になるものを入れてください」(←適当)みたいなことが言われるのです。

 

で、その日の朝は、CDはかけなかったけど、その箱のことを思い出したので、「あ、脳みそ入れよ」って思ったのでした。

 

 

なぜ、こんなどーでもいい事を書いているかと言うと、

 

今、花岡修平さんの記事を読んでいて、↓ の質問で、「脳みそを箱に入れる」は、この「頭のない方法」と同じことをやったのではないかと思ったのです。(書きながら「ど――でもいいこと書いてるなぁ・・・」と思っている)(笑)

 

と自我はそう思っているけど、後になると、どっかと繋がっていて意味のあることだったりするんだよね。これが・・・

 

先日の日記で↓ 

神以外はない - 言葉録

ふと、思いついて、後から書きたした法事のお経が花岡さんと繋がっていたように。

 

 

 

 

shikoutoshi.hatenablog.jp

 

>この記事の「わたし」が消える実験(ワンネス感覚)と以前の記事のダグラス・ハーディングの「頭のない方法」の実験は体験としては同じなのでしょうか?

 

 

同じではありません。

 

 

 

前者は意図的に思考の減衰を試み、「わたしが消える」事によって認識者を特定する事無く、認識だけがある故に、全ては現れているだけでありそれ以外は無いと観る事。
それは数々の(個々の)模様(形や色)を認識していながら、分離の感覚の無い、ひとつの、また全的な在りように漂い在る事です。
その時、全てが認識であり、あえて認識している者を置くならば、認識対象の全てがその者であるという感覚です。
そこにひとつ以外のふたつめ、みっつめは無く、純粋なる全てを観る感覚、溶け込んだというよりも、それ全部はひとつという感覚を知ると思います。
一度それを発見できれば、次からは比較的楽にそれに入れると思います。


後者は頭という意識からのシフト、つまり観察者としての意識を持ったまま、その意識そのものにシフトし、その立場から世界を認識する時に、結局認識者の認識する全ては、認識者の頭(認識作用)そのものであり、身体としての頭も身体そのものも、それに続く空間も家も森も空も、ただ続く模様(形や色)であり、それらは認識する頭(意識)に現れ展開されている全てと観える事。
この場合、観察者という立場があり、それだから世界という頭がある。
しかし、世界の個々の分離はやはり無いという事に気づくでしょう。
そうであるから、認識者の方に展開が、その変化が現れ来て、認識者が変化の方へ移動しているのではないという観え方となるのです。
ですから、あくまでも認識者を置いた観方、それを中心に現れが現れ来るのだと理解できると思います。


前者は認識そのものの立場にあり、思考が立ち現われにくい状態での気づきであり、後者は認識者としての立場を捨てていませんので、思考による新鮮な驚きとかは後者の方が楽しめると思います。
まあ、両者の同じ部分は、分離境界、つまり境目はどうでもよくなるという事でしょうか。


しかし、何度も言いますが、これが悟りというものではありません。
これらは、その感覚に入れるか入れないか、だけの事です。

 

 

 

 

きゃーーー!!

 

オカメインコのカンちゃんを放したままほっといて、この記事書いていたら、

多肉植物を食べられてしまった!!

 

f:id:kotobaroku:20180227154558j:plain

 

 

本来は↓ こういう形

f:id:kotobaroku:20180227154758j:plain

 

 

ラブハートが・・・・

 

    ギザギザハートに!!!!

 

 

 

 

 

    

 

 

T27-2 癒されることへの恐怖 - There Is No Spoon

 

いったい誰が、自分の兄弟によって傷つけられながらも、なおその兄弟のことを愛し信頼することができようか。

彼はすでに攻撃してきたのだから、また再び攻撃してくるに違いない。

 

 

★先日、テレビで動物救急医の現場を見た。

怖れている猫は、とても凶暴で歯をむき出して威嚇し、鋭い爪で容赦なくひっかいて来る。

とても危険だ。

それでも助けなければならない。

ただ、怖れているだけなのだ。

 

傷ついて怖れている人も、周りを容赦なく傷つける。

本人が苦しんでいるのはわかるけど、近づくと自分が傷つけられる。

だから、近づかないようにする。

これがほとんどの神の子が同じ神の子にしている・・・

 

小羊が小羊を助けることはできないのか・・・

羊飼いに頼むしかないのか・・・(ひとりごと)

 

 

癒されていない者には赦すことはできません。

 

★そおか・・・

その人に”傷ついている人”というレッテルを張ったのは自分だ。

その人の光の部分を見ることが、自分の光を認識することなのか・・・。(ひとりごと)

 

 

あなたが赦す者となり、自分の兄弟と自分自身に救済を差し延べられるように、あなた自身を癒してもらってください。

 

修正の焦点は、あなた自身の外側の誰かに、つまり、この知覚の仕方が続くかぎりは、あなたの一部ではありえないほかの誰かに定められることになります。

 

あなたが自分だと知覚しているこの残りの半分に対して、あなたがそれが自分のもうひとつの半分なのだと認めるまで、聖霊はそのもうひとつの半分を象徴しなければなりません。

 

聖霊のたったひとつの目的が、あなたが二つに分離したものとして知覚している心の半分同士をひとつに結び合せます。

 

そして、あなたの心の半分同士は、各自が自分のもう一方の半分を自分の一部として受け入れられるように、相互に相手を赦すことになります。

 

www.youtube.com

神以外はない

T22-2 あなたの兄弟が無罪であること - There Is No Spoon

 

ひとつでも幻想を大切にして、それを真理に対抗して防衛するなら、それがすべての真理を無意味にし、すべての幻想を本物にしてしまいます。

 

そして、潔白さを信頼したとしても、もしその信念がひとつでも生命あるものを締め出して、それを拒絶して、それに赦しを与えずにおくなら、それはを信じることになります。

 

★昨晩、猫のニャンニャンが一晩中、顔をなめたり、髪の毛にじゃれたりして、ほとんど寝れなかった。

肩が凝って、頭も痛くなったので、もう部屋の外に閉めだした。

そしたら、ずぅっと鳴きながら、戸を開けようと我自我時(←ガジガジ)(絶妙な変換するなぁ)(笑)と大きな音を立てている。

しょうがないので戸をあけた。

もう寝れなくてもいいや。

と思った時、「あ、わたし、全部自分でやってる」「ぜんぜん聖霊に委ねていない」って気が付いた。

ニャンニャンは聖霊だったんだ。神だったんだ。

「はい、ぜんぶ委ねます。」

「どーにでもしてください。」

「このまま朝まで寝れなくても、頭痛がひどくなって死んでも(←死なない)かまいません。」と降参した。

そしたら。ニャンニャンはすぐ隣で枕を並べて耳元でいびきをかきだした。

いびきぐらいぜーんぜんかまわない。(笑)

 

 

救い主がどのようにして救いを成し遂げるのかは、あなたの理解の及ぶところではありません。しかし、救いの時をいつにするかは、あなたが選ぶべきことです。

 

なぜなら、時間はあなたが作ったものなので、時間であれば、あなたは意のままに支配できるからです。

 

あなたがここに静かにキリストとともに住むために必要なのは、ただキリストのヴィジョンを分かち合うことだけです。

 

あなた自身と同じように罪なき者であるあなたの聖なる兄弟を見てください。そして、彼に、自らを天国まで導いてもらうがよいでしょう。

 

 ただ自分の兄弟に罪はないと見る意欲がありさえすれば、誰にでも、すぐにキリストのヴィジョンが喜んで与えてもらえます。

 

 

 

 ★今日は法事だった。

お経のこの部分、けっこう気に行ったな・・・

 

 末代無智の、在家止住の男女たらんともがらは、こころをひとつにして、阿弥陀仏をふかくたのみまいらせて、

さらに余のかたへこころをふらず、一心一向に、仏たすけたまえともうさん衆生をば、たとい罪業は深重なりとも、かならず弥陀如来はすくいましますべし。

これすなわち第十八の念仏往生の誓願のこころなり。

かくのごとく決定してのうえには、ねてもさめても、いのちのあらんかぎりは、称名念仏すべきものなり。

あなかしこ、あなかしこ。

 

 

 

★寝ても覚めても、神を想うようになりたい。

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

追記 (2.26)

今日、友人と花岡修平さんの話題になり、以前、阿部敏郎さんのコメント欄に書かれた花岡さんのコメントが見つかりました。

浄土真宗の他力本願の事が書かれてあったんですね。

 

浄土即ち遠からず:かんながら

コメント欄

わたしはかつて、浄土真宗はなんて自分に都合のいい身勝手な考え方をしているんだろうって思っていました。
他力?あなたまかせでいいの?人生は自分で切り開いていくものじゃないのか?って。
ましてや、悪人でも救われる?そんなのありか? みたいな。

でも
それは全く全く正しかった。

一年前、わたしの身に起こったこと。
認知症の母が寝たきりになり、施設に入れたくても空きがなく、空きがあっても重度であるため入所費用も半端なく、手段がないため仕事を辞め自宅介護にふみきりました。
そんな折かみさんが鬱になり、リストカット
長期の入院を余儀なくされました。

収入は完全に断たれ、かみさんの医療費も高額で、途方に暮れました。
今まででも経済的な困窮はありましたが、こんなに前途が真っ暗な状態になった事はありませんでした。
行政の支援もお願いしましたが、まず資産を処分してから来なさいと断られました。
処分するにも、なんせ、ど田舎の地所ですので土地も家も買い手などつきません。

困り果てたわたしは、来る日も来る日も思案に明け暮れました。
そして、あきらめたのです。
もう起こる事と戦うのをやめよう。自分はもう死ななければならないなら死のう。
いや、積極的に死を選択するのではなく、そうなるのであれば受け入れよう。
世界が有るなら、それを現している元の、なにか偉大な力が存在するはずだ。
それに自分の全てをまかせよう。生きようと必死になるサバイバルを捨てよう。

そうして、その偉大な力、いわば源泉に、または神に。
わたしはわたしの人生だろうが、身体だろうが、命だろうが、魂だろうが、
ありとあらゆる自分に関わる一切を差し出したのです。

そうするとどうでしょう!なんと。
自分の苦悩から解き放されたような解放感に浸れたのです。
そして、ここに!
この胸の、ここに!
説明のつかない、ふくらみのある何かが現れたのです。

それは今まで味わったことのない幸せ、喜び、条件を必要としない愛と共に現れました。
わたしはその至福の故に喜び、その感謝の故に泣き、
溢れ出るその愛の故に、酔いました。
それは今でも、ここに。この胸のここから溢れてきます。

それが現れてから数日後、生活も、家のローンも、治療費も出してあげよう。返さなくてもいい。
そんな人が出てきたのです。
まさに神が、わたしの人生の主導権を引き受けた瞬間です。

わたしは自分の内側に、絶対的に信頼できる神を得たのです。
それ以来、わたしは内側に、神の側に向いていて、頭のほうに意識を移動するには若干気力を使わなければなりません。

自分の全てを放棄して、内なる神におまかせし、何であれそのみこころを受け入れる。
全くの他力です。
そして、わかったのです。
だれもが本当は神の要素であることを。
それらは何一つ離れてはいない。
全ては一の中にある数限りない一であって、それらは集まっても全部で一であることを。
だれも生まれたものではない。
だれも死ぬものでもない。
世界は、みこころによって意識に立ち現われた映像にすぎないことを。
この至福の世界こそ、法然の言う浄土であることを。
そしてそれは、あの世にあるのでも、この世にあるものでもなく、
ああ、それはほんとうは、全てなんだということを。

しかしながら、ほんとうにこの表現はいいのだろうか?
言葉では言えない。
それは存在しているとしか、これしか言えない。
ただ、他力は、正しかった。
今までほんとうにわかっていなかった。
これは、経験してはじめてわかる事なんだと実感できた。
このことだったんだって、わかったんです。
もう身体を離れるのはいつでもいい。
明日でも、今からでも。
みこころに従います。
Posted by 花岡修平 at 2012年02月16日 23:42

 

福音:かんながら

 

一期一会:かんながら

コメント欄

花岡です。

この度のわたくしの後先考えないコメントによって混乱を呼んでしまった事を、まずお詫び申し上げます。

人によっては、やはり人生に究極のどん底を経験しないと「完全な明け渡し」は不可能なのか?
あるいは、自分も同じような体験をしたいとか、うらやましいとか、もっと努力するとか… 。
かえって自我を奮起させてしまったようです。

そうではないのです。
気づきにつながる過程は、誰も一様ではありません。
わたしの体験をラーニングしようとしても、それは絶対無理な事です。
わたしはわたしの課題をそのまま生きて、結果こうなっただけなのですから。

起こる事は、どうしたって起きてしまう。
起こるはずのない事は、起こりようがないのです。

今、苦悩の中にいる人がいて、今、楽しい人生を生きている人がいて、
でもね
それはみんな、その人にどうしても経験しなければならない課題を生きているんです。
自ら選択し、それによって与えられた課題の生なんです。
言ったら、それでさえ愛によって与えられているんです。

だからだれもが、今、そのままで間違っていません。
そのままで、完璧です。
だれもが許されきっていて、だれもが愛されきっているんです。

我々は苦悩の原因を過去に探します。
そうであるならば、過去の一切が、あらゆる存在が原因に関わってきます。

こう考えてください。
誰もが今すでに、このまま悟っている。だけどそれに気づいていない。
しかし、いつか必ず誰にも気づきが訪れる。
その輝かしい事のために、今、この苦悩を体験している。
この原因は、その輝かしい事そのもののためにあるんだと。
結果がそのまま原因です。
そうでなければ苦悩する意味など、どこにあるのでしょうか?

今、ありのまま、生きていることが、
それだけで、気づきに向かっているんですよ。
だから何も心配いらない。
焦りも、恐怖もいらない。
課題を楽しんで生きてください。
みこころに運ばれてください。
わたしは、母の介護と、かみさんの世話で、しんどさを楽しんでいます。
何もわからない母の胸に掌を当てて、「神はここに在るんだよ」って。
そうすると、穏やかな笑みを返してくれるんです。
神はここに。そしてそれはそのまま、あなたです。
Posted by 花岡修平 at 2012年02月20日 14:13
 
花岡さんのブログが閉じられてしまった今、
残されているこうしたコメントがとても貴重に感じられます。(遺跡を発掘したような・・・)(コレッ!)
 
今はなき(←そういう言い方はやめなさい!!まぎらわしいので)花岡さんの記事を集めたブログ