エネルギー問題
↑地球環境の話ではない(笑)
過去の出来事といっしょに、浮上してくる嫌な感情、
そのエネルギーを
「これは何何が起きたせいだ、誰誰のせいだ」とラベルを貼って、
(。・ω・)σ ⌒*ポイポイと外に放り出してしまった。
でもふたたび、それがふと上がってきたときに、純粋にエネルギーだけを感じてみると、エクスタシーだったりする。
そうか、、、エゴはこれを感じさせないためにこんな技を使っているのか。。。。
本当に外の世界や他者って、
— 約束 (@i_chie_) 2019年3月15日
純粋にエネルギーを感じさせないためのスケープゴードなんだなぁ… #k
昨日、時間調整のために本屋さんで時間をつぶした。
その時に読んだ本が『われ在り I AM』(ジャン・クライン)という本。
あなたの本質は、静寂、光、外線のない広がりです。
それは条件づけられていない存在、愛です。
あなたはエネルギーであり、空であり、光
あなたは真理であり何も獲得する必要はない・・・
と書かれていた。
(↑書店でメモった)
家に帰って、本と著者について調べてみたら、
『カシミールの非二元ヨーガ ― 聴くという技法』
という関連書籍があったので、ちょっと読んでみようかなと思って注文した。
最近は本を買っても、最後まで読めなくなった。
本棚にそういう本がたまっている。
さて・・・この本の行方は・・・?(本棚のこやしになりませぬように)
余談~
カシミールのヨーギについて検索したら
イエスとも関連があるらしい(ほんとかどうかはわからないけど)びっくり(゚〇゚;)
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3.17
対象は私たちの外側にあるわけではなく、潜在性として私たちの内にある。
そのため、エネルギーがどこか特定の方向に向けられることがなくなって「見られているもの」に力点が置かれなくなると、
その意志の働きとは関係なく自然に解消し、 「見ること」の中に消えていく。
かつては複数の軸を持っていたエネルギーが、一つの軸に集まるようになる。
これが意識への最短の道だ。
見ることの中で私たちは自分を見つける。
意識と知覚は一つであり、私たちの外側には何も存在していない。
聴くことが起こっている場所を特定することはできない。
それは空間と時間を超えている。
このように観察することのなかに、自分自身の完全なる不在があります。
それが自分の実在です。(『カシミールの非二元ヨーガ』 p28)
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3.18
手放すプロセス p38~
表面にある緊張をある程度手放し始めたときに、
方向感覚を失った感じ、場合によってはパニックの感覚が生じたとしても、それほど驚く必要はない。
身体の慢性的な緊張や抵抗は、これが自分だと考えているものを守るために築き上げられてきた。
そのアイデンティティーを失うことに対する恐怖や、無防備さの感覚が生じる。
この恐怖が幻想の上に成り立っていること、
自己イメージ、自我には幽霊ほどの実体しかないことを理解すればするほど、自分ではないものを楽に放棄できるようになる。
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なんだか・・・奇跡講座を読んでいるような感じになる・・・
でも、後の章は『ヨーガ』とタイトルにあるように、ほとんどが
ヨガのエクササイズだ。
しかばねのポーズが最初に載っていたが、
身体が床に入っていくような感覚
床が身体に入ってくるような感覚
最後は身体と床が一つになる感覚
というように、一般的なヨガとはちょっと違う。
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3.19
ヨーガに見られるある種の二元的傾向についても、ジャンは懐疑的だった。
ヨーガは結合することというが、何と結合するのか。
私たちは初めからひとつだ。
そのことを見るだけでいい。(p190)
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純粋な非二元の視点から見れば、痛みも、苦しむ私も存在しないのですから、癒されたり目覚めたりするプロセスは存在しません。
ただ光だけ、ただスピリットだけが存在するのみです。
でも、そのことが本当にわかってくると、この現象世界の中では、過去の痛みが自然に癒され始めます。
自分の本質である、広がり、空間、沈黙の中で、苦しみを生み出しているエネルギーの収縮が自然と緩み、痛みが解放され癒されていきます。
すべては光なんだ、すべてはスピリットなんだ、という言葉、非二元のストーリーを信じているだけでは、癒しは起こりません。
逆に、非二元のストーリーを信じることで、痛みを見ることを避け、苦しみを長引かせているのです。
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身体、精神、世界はその真の光の中で、対象としてではなく、
意識とひとつのものとして認識される。
意識のほかに何もなく、神のほかに何もない。
自分を身体であるという視点に立つと、世界は形として現れる。
自分とは人格であるという視点に立つと、世界は精妙な形をとって精神として現れる。
そして、自分とは意識であるという究極の理解からすると、世界は意識にほかならない。(カシミール p208)