神はどんなことも裁かない
自分が自分に禁じている事の中に、罪悪感が潜んでいる。 #K
— 約束 (@i_chie_) 2019年3月22日
その、”してはいけないこと(という自分の法律)”を
あえて犯してみる。
そうすると、
「こんなことをしたら神に嫌われる、神を冒涜することになる」
などの思いが潜んでいることに気づいた。
「神は何事も裁かない」と言い聞かせてその思いを変換すると、
それはただ神を求めていただけであったことに気づいた。
私は何も罪など犯していなかったんだ。
ただ神を求めていただけなんだと。
こうやって自分を赦すのか・・・
そして、それが意外にも、身体の痛みや、緊張と関連していることを知って感心した。
「それをしてはいけない。(神に裁かれる、神を冒涜することになる)」と言っているのは、確実に”エゴ”だ。
自分は神を怖れていない、神は愛だと知っているし・・・・
などと思っていたけど、、、
こんな形で怖れていたんだ。
『すべてを受け入れて自由になる』という大好きな本のタイトル。
奇跡講座ふうに言うと『すべてを赦して帰郷する』かな・・・
と、思ったのも、
最近、なんか、
人が人を裁くのをよく見る。
そして、昨日も
奇跡講座を学んでいる人が
ある思想を否定しているのをきいて、
悲しくなった。
たしかにそれは正しいのかもしれない。
でも否定するそのエネルギーが悲しいのだ。
(全体の中の一部をナイフでそぎ落とすような感覚)
そして、今朝、洗濯物を干していて(なぜかいつもこの時だ)(笑)
あれ?これ、全部自分の中で起きていることなんだから、、、
その裁いている兄弟なんて、もとよりいないんだった。(そのもとよりいない兄弟の発言をすでにここで裁いているではないか)
聖霊が見せてくれていたんだなぁ・・・
確かに私の中に「人を裁いてはいけない」という法律がある。
だからといって、
また
あえて・・・
「やってみるか」とは思わない。
裁きたくない
悲しいから
腐ったリンゴをかじってしまったときに、
間違いなく腐っていることを確かめようと丸ごと一個食べたりする必要はありません。(ジャン・クライン)
瞑想とは何かをすることではなく、選択せずに気づいていることだ。
生じようとするものを生じさせ、
海底深くから浮かび上がってくる泡と同じように
思考が消えていくのに任せることだ。
思考をいちいち分析したり追いかける必要はない。
もしそのようなことをすれば、
思考を持続させ、かえって活発にすることになる。(カシミール p204)