身体
T2-4 恐れからの解放としての癒し - テキスト第2章(分離と贖罪)
3. ただ心だけが創造できます。なぜなら、霊はすでに創造されているし、身体は心が学ぶための道具にすぎないからです。
教材は、教材そのものが教わるべき教訓であるわけではありません。
教材の目的は、ただ単に学びを促進することだけです。
教材を使い損ねて最悪のことが起こったとしても、それはせいぜい学習を促進し損ねるだけのことです。
教材自体は、実際に誤りを学ばせる力など持ってはいません。
もし適切に理解されるなら、身体は、攻撃と防御の諸刃の剣として用いられることのない贖罪の強い耐性を共有していることがわかるはずです。
この理由は、身体が奇跡だからではなく、誤って解釈されることに対して身体が本質的に無防備なわけではないからです。
身体は、物質世界でのあなたの経験の単なる一部でしかありません。
身体の持つ能力は過大評価されることがありうるし、現にたびたび過大評価されてもいます。
しかし、この世界の中で身体の存在を否定することは、ほとんど不可能です。
この世界の中で身体の存在を否定しようとする者たちは、否認の中でも、とりわけ価値のない形の否認にかまけているといえます。
ここで「価値のない」という言葉を使うのは、ひとえに心を持たない身体を否認することによって心を保護する必要などないことを示したいからです。
もしある人が、この身体の存在という心の力が不適切に表れた一面を否認するとすれば、彼は同時に自分の心の力そのものをも否定することになってしまうのです。
朗読『奇跡のコース』#11 Ⅳ 怖れからの解放としての癒し - YouTube
朗読『奇跡のコース』#20 Ⅴ 知覚を超えて - YouTube
リアルすぎる幻想世界
さきほどから、ブログを流し読みしていたら、同じことが続けて書かれていた。
ハレ師匠と言えばハートである。
「ただ、いくらハートに戻ればいい、と言っても、
肉体としての自分の存在感がリアルすぎて、
戻るための最大の障壁になっている。」
と、ハレ師匠は言っていた。
自分や他人がここに本当に存在している感覚が、
半端なくリアルなために、いくら頭で分かっていても、
ここが幻想だと、どうしても思えないでいる。
いくら否定したって、熱いし、寒いし、美味しいし、
ムラムラ来るし、痛いし、見えるし、聞こえるし、
で、しっかり、リアルな知覚が肉体にはある。
★ハートといえば、花岡修平さんと思っていたけど、
そうか、、ハレルヤさんもだったのですね。
なんか、なんか、うれしいな・・・・うれしいな・・・・
全体目線から見れば、個人という存在そのものが幻想なわけだけど、この幻想はあまりに生々しくて、
「はいそうですか。幻想なんですね」
なんてわけにもいかない。
★そうなんです。
今日わたしは、
「幻想を信じない力がほしい!!」と思いましたよ。
山をも動かす力
昨日お客さんがきて、延々と深刻な悩みを吐き出していった。
店長も皆もなんとかしてあげたい気持で聞いていたが、
お客さんが帰った後、へとへとになっていた。
でもこれはわたしの中で起きていること。
何のメッセージなんだろう。
テキストをパッと開いてみた。
T-21-3-5
信仰が山をも動かせるということが、なぜあなたにとって不思議なことなのだろうか。
神の子に信が欠けているということはあり得ないが
彼は信をどこに置くかを選択することはできる。
不信は信の欠如ではなく、無に対して信が置かれているということである。
幻想に向けられた信に力がないわけではない。
なぜなら、それによって、神の子が自分は無力だと信じることになるからである。
そう、お客さんは自分の無力さを信じていた。
「わたしはもう年だし、あなたたちみたいに技術もない。だからどうすることもできない。」と。
最近、ジーザスカードでよくでるのも
「あなたがたに信じる気持がカラシ種一粒ほどでもあれば・・・」だ。(昨日のカードもたしかこれだったような・・・)
ああ、これが伝えたかったんだな・・・
しっかりと受けとります。
ありがとうございます。
追記
今、夕飯を作っていて、昨日のお客さんの言葉を思い出した。
「あの人は(ご主人)わたしが何もできない人間であることを望んでいる。」と。
これって、自我の言葉そのままじゃん!!
自我は、「あなたは何もできない卑小なものである。」と言い、
聖霊は「あなたに出来ないことは何ひとつない。」と言う。