言葉録

苦しいとき、辛いとき、悲しいとき、どうしたらいいかわからなくなってしまったとき、そんなときにパッと開いて自分を救う言葉があればいいなと思い、本や他人様のブログから(勝手に拝借して)載せています。m(_ _)m

観ているさん

shikoutoshi.hatenablog.jp

 

あなたはただ、「見る者」です。


その立場で、全てを検証するのです。

 

世界がほんとうに有るのかどうか、検証するのです。

「わたし」がほんとうに有るのかどうか、検証するのです。

 

「見ている者」は「わたし」を見ています。

 

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追記(3.6)

★この「見ている者」は以前、テレビを見ているとき、ふいに現れた。

全く何の判断も批判もなく、ただただ観ている。

よく言われる「スクリーン」とか、笑ウリさんのいう「誰だかわからないさん」と同じものなのだろう・・・

 

 

何も心配することなどない 花岡修平 「真我が目覚める時」 - わたしの終わり

何も心配することなどない

 
人は神に近づき、彼を知った後でも、この世に生活する。
 
その時には全く無執着の生活をすることが出来るのです。
そのような人は、意識の大部分を神に注ぎながら、残りの意識で世俗に生き、
務めを果たすのです。
 
自我を手放した自由を味わうなら、つまり行為者としての自分を明け渡し、
一切を神に代行してもらうなら、心配するべき事など何もありません。
神はそれを引き受けてくれます。
 
自我を手放したとしても、それは自我が完全崩壊して消滅する事ではありません。
我々が身体を持っている限り、それはあるのです。しかし、それに執着することも、
惑わされることもなくなります。
 
「身体がわたし」という認識は、もはや起こることがないでしょう。
そのように意識の置き所をシフトするなら、全く今までの外側に対する
見方が変わっています。
 
多くの賢者たちが内側と言うのは、外側に住む人から見た意識の置き所です。
つまり外側から外側を見ている人に対しての言い方です。
 
内側に住んで外側を見ているなら、内側という感覚はありません。
そこが普通に、居心地の良い住処です。
 
内側に住んでいるという事が、即、神に触れるということではありません。
しかし、もしも望むなら、あるいは神が呼んでくれるなら、
速やかに彼に触れることができるのです。
 
その時には、外側の事は極めて意識から遠のいています。
全く神の愛に包まれて、その中にくつろぎ、至福と喜びの中にあるだけです。
 
またその時には、「わたし」という想いは、ありません。
神と自己との距離感さえ想う事無く、ただその状態にあります。
わたしが忘我の状態というのは、そのような事です。
 
そのような状態は、ほんの一瞬の時もあり、
状態が許すなら長く留まっている事もあります。
 
長ければ長い程、深ければ深い程、普通の状態に戻るのにしばらくかかります。
歓喜の尾を引きながら戻るのです。
 
しかし、このような状態が起こったとしても、わたしは聖者ではありません。
わたしは実際、聖者という者を知りません。これは、普通の人間の普通の現象
であって、外側に住むから忘れているだけです。
 
人々は自我に縛り付けられ、身体が欲する欲望の暗示にかかっているのです。
内側から外側の人々を見るなら、それがありありと見えるのです。
 
そうだからと言って、わたしに何ができましょうか。
それが彼らの学びであり、神のみこころなのですから。
 
聖者はそのような人々を、どうされるのでしょうか。
どのように導き、救い上げるのでしょうか。
 
わたしにはできません。神だけがそれをできるのだとしか、思えないからです。
つまり、人々、それぞれの内側に通じる神が、そうするのであって、
彼らは自らそれを悟るしかないと知っているからです。
 
人はそのように、いつだって導かれているのです。
 
そのようにして、わたしはどのような人にも、その内側に神を見ています。
それだから、世界に何が起こるとも、わたしは心配などしていません。
 
誰も死んだりしません。
誰も産まれてなどいないからです。
 
この事が悟られるなら、もはや誰も保身による争いなどしないだろうに。
そうはならないところが、また、神のリーラ。
それは単なる戯れなどではなく、愛ある幻です。
 
今日も全ての人、全ての生き物、全ての存在、
あらゆるものたちが幸せでありますように。
 
これは神への願いではなく、そのあらゆるものたちに向けての祈りです。
わたしは神のなさる事に、あれやこれや口出しはできません。完璧だからです。
そのまま。
受け入れるだけです。

 

ハートはわかっている

「信じるちから」と「わかるちから」 花岡修平 「真我が目覚める時」 - わたしの終わり

 

信じる事と、わかる事の、この全く異種の受け取り方を、我々は思い起こさなければなりません。

信じるとは、自我の思考に他なりません。
言葉と思考を用いて、信じるべきか否かを判断し、その判断基準を自己の欲求に置き、包み込み、いかにもわかったと思い込んで記憶に保管するのです。


わかるというのは、深層の向こう側での洞察です。
そこに思考は介在せず、それが直観として、表面に現れ来るのです。
精妙なるインスピレーションです。
Holy force です。
瞑想は、それによって、開花するのです。

 

そうであるから、ラマナは「あなたは眉間に集中してどうしようと言うのか」と、あきれて言うのです。
ひたすら眉間に集中しようとする心の、落ち着きのない闘いは、エゴ(思考)によるものです。

 

あなたの愛は、どこから湧いて出てくるのでしょうか。
あなたの喜びは、どこから湧いて出てくるのでしょうか。
安堵の安らかさは、どこに置かれているのでしょうか。

 

気づきは、そこから立ち起こってきます。
そこに、わかるちからが、わかる能力が息づいているのです。
そこを、胸に感じてください。
そこは、あなたの神に最も近い場所です。
そこから、全てに意識を届けられるでしょうか。
宇宙の、彼方全ての隅々まで。
あなたが描く宇宙が、そこから広がり、展開されているのを観る事ができるでしょうか。

 

しかし、意識の届く速度は、時間が関与せず、瞬間に宇宙の果てまで届きます。
あなたの意識が、宇宙全てを描写しているのです。
真実のあなたは、そのように、とてつもなく大きな宇宙を描き出しているだけでなく、それを超えて無辺に大きいのです。


それは全てであり、ひとつであり、神の在り方と、全く同じなのです。
ところが、あなたの自我は、その中のほんの一点、その頭の中に閉じこもっているそれでしかありません。
ニサルガダッタの言うように、「わたし」というのは、この小さな一点でしかないのです。

信じるとは、その一点が信じているに過ぎないのです。
それを解放して、今、この胸のわかるちからに落ち着いて、全てを感受してください。

 

何も持たない人に、欲しがらない人に、恩寵は与えられます。
欲得の無い人にしか、真実の幸せは理解できません。
エゴを明け渡し、素っ裸な、清らかな者となって、はじめて神の愛を、恩寵を頂けるのです。


頭で、思考で、信じるのは、言葉を知ってしまった功罪の片割れかも知れません。
ハートで、深層で、言葉も、思考もなく、直観的に、ダイレクトにわかる、わかるちからを取り戻してください。
ハートの奥底に、それがあります。
その神聖な場所と神性なちからを、取り戻してください。
あなたの、内なる、唯一ゆだねられるその、絶対者に頼ってください。