罪悪感と無罪性
L161から
彼に対し、ただ救済だけを求めなさい。
そうすれば、彼はそれをあなたに与えるだろう。
彼にあなたの恐れの象徴を求めてはならない。
(彼の)神聖な手が、あなたの手に打ち込まれた釘を抜き取り、あなたの血まみれの額から、あなた自身がかぶせた茨の冠を取り外すことができる。
「聖なる神の子よ、わたしに祝福を与えてください。
私はあなたを祝福のまなざしで見て、あなたの中に私自身の完璧な無在性を見たいのです。」
彼の中に自分の恐れの象徴を知覚してしまいそうになったら、必ず直ちにこの概念を使うようにしよう。
そうすればあなたが呼びかけた相手であるキリストが答えてくれるだろう。
キリストはあなたの中の神を代弁する声を聞き、あなた自身の声で答えるからである。
あなたが今まで単なる肉と骨の塊だと見ていた兄弟を、今、よく見てみなさい。
そして、キリストがあなたのもとに来たことを認識しなさい。
そうすればあなたは、彼が瞬く間に敵から救済者へ、悪魔からキリストへと変容するのを見るだろう。
追記)
★コースでよく言う「相手をキリストとして見る」とは、このことだったのですね。
以前、世界平和の祈りをしていたときには、友人との間に誤解やちょっとしたすれ違いみたいなものがあったりしたときに、相手の守護霊さんに祈ると、夜、その友人が電話してきてくれたりとか、そんな体験をしたことが何度かあります。
相手の自我を見れば、自我としての相手が現れ、
相手のキリストを見れば、キリストとして私の前に現れるということですか。
すごい!!
L162 私は神が創造したままの私である。
これは、あなたが作り出した世界に対して、神が与えた答えだからである。
この言葉によって、世界は消滅する。
夢の中の罪の想念や現像が一つ残らず消えていく。
この言葉は世界中に鳴り響くトランペットである。
★昨夜から、罪について、罪悪感について、もんもんと自問自答していた。
今朝、いつものように静かに座ったら、胸の中にあるのは安らぎだけだった。
あれ?
わたし・・・幸せなのかもしれない
なんか幸せなんですけど・・・
そして、ワークを開いて読んだレッスンは、まさしく聖霊からの答えだった。
<自問自答>(自我の声など、ここに残さなくてもいいのかもしれないが)
あ、思い出せない・・・
消えた(笑)
追記)
自問自答の中で、聖霊の言葉だけは思い出したので記しておきたい。
自我が人間の根本的な罪についての根深さに苦悶していたのに対して
:聖なる神の子
それでも苦悩はあるではないか
:消えていく姿
:実はそれ(消えていくもの)さえもない
自我は「あんたまでそれを言うのか」という感じだった。
究極の真実を、他人や覚者が言う分にはまだいいが、今回はじめて
自我は「あなたはいない」と直接言われたようなものだったのだ。