言葉録

苦しいとき、辛いとき、悲しいとき、どうしたらいいかわからなくなってしまったとき、そんなときにパッと開いて自分を救う言葉があればいいなと思い、本や他人様のブログから(勝手に拝借して)載せています。m(_ _)m

われ在り I AM

この本を読んでいると、深ーく呼吸している

ちょこっと読んでは目をつぶる

 

だから、まだ半分ちょっとしか読めていない。

 

 

途中、”観ているもの”って映画に例えると「スクリーン」みたいだな・・・って思った。

 

”私(登場人物)”が「どうすればいいですか?」って聞いたところで

指示しない。

 

ただただ映し出しているだけ。

登場人物には一切干渉しない。

 

 

この ”観ているもの” が ”本当のわたし” だという

 

いやいや、こいつ、本当に、、ただ観ているだけで、なにもしないよ・・・(笑)

 

 

じゃぁ・・・

それらすべてを映し出している ”光” は?

 

わたしたちは ”光” のほうだよねぇ・・・

 

 

考えてもわからないや・・・

 

 

ハートにいこ

 

 

ああ、ここは安らかだ・・・温かい・・・

 

 

そうか

色即是空

の空がスクリーンで

 

空即是色

の色が光であり、わたしたちであり、実在か・・・

 

 

 

 

 

 

「初め、見ると山があった。(主体と対象の山)

次に見ると、山はなかった。(主体と対象がない)

その後で見ると、ただ山がある。(対象としての山ではなく、一体性の表現)」(中国の禅僧 青原惟信)(われ在りp140)

 

 

 

あなたに信じる気持ちがカラシ種一粒ほどでもあれば 、

山に「ここからあそこへ移れ」と言うだけでそうなるでしょう。(お~~~ぃ、ちがうぞ~~~)

(瞬間移動で消えたんじゃないから!色即是空の話です。)(笑)

 

 

 

(他にも変更や未登録の電話番号がないか確認したら
結構あったわ。)

 

”私”という主体が現れることによって、
”他者”という客体が現れるのじゃよ。(←あんただれ?)

 

 

 

 

 

 見るものと見られるものと光

https://ameblo.jp/japan-mission/entry-12040798913.html 

 

 

 

 

 

 

対照が意識の表現であると認識されると、

その実体は知識、すなわち生ける静寂、平和、透明性の中へと消えてゆきます。

この光は、対象が現れる以前から、ずっとそこにありました。(p141)

 

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(長くなったので、ここから『われ在り I AM  その2』 として、再投稿します。)

 

自分を一つの人格とみなすことは、その他の多くの習慣と同じ、ただの習慣です。(われ在りp151)


奇跡とは習慣であり、意図せずに起こるべきものである。(T1-1-5)

 


何かをしようとするのはほとんどが自我で、

瞑想にしても「瞑想しよ」って、自我がする。


じゃ、自我がしない瞑想って、、、


”習慣瞑想”  か!?

 

 

「無為にしてなす」じゃ(by老子

 

 

「無理にしてもなす」(by自我)